昭和46年12月12日 朝の御理解 (おかげの泉 第29号)
御神訓 一、「体を作れ何事も体が元なり。」
軆とは体(からだ)、体を作れ、何事も体が元なり、何と云うても、健康が元だと言うのです 何をするにも確かに健康なしには出来ません、どんな素晴らしい頭脳を持っておりましても、体が弱かっては何にも出来ません。兎に角まず体の健康、何事にも体が元だと教えておられるのです。其処であのー体を作ると言う事なんですけれども、色々な栄養をとる、食べ物です。そして適当な運動をする。
それだけで良いかと言うと、それだけでもいけない。その大元根本になるものは心である。「健全な心に健全な体が宿る」と云われておる、確かに私はそうだと思う。体を作る。やはり適当な運動、それから適当な栄養、其れだけで良いと言うのではない。所謂健全な心を作って行かねばならない。その健全な心に、健全な肉体が宿ると言うので御座いますからね。健全な体に健全な心が宿ると云うのではない、健全な心に健全な体と、心が元である。悪い事を例えばする。
喧嘩をしたり、人殺しをしたり、そりゃ頑健そのもの、健康な体を持っておる。所謂健康をもて余す程の体を持っておる為に乱暴する。折角栄養を取ったり、運動をしたりして、健康になった事が却って不幸せになる元では出来んのであります。何とか云う力道山かね、レスリングの、昔はは相撲さんじゃった。バ-かなんかに飲みに行ってから、横におったお客さんが何かグズグズ言うた、「何ごつ言うか」と言うて殴った所が相手が死んでしもうた。 あんまり力が強かったから殴り殺した訳ですよね。
それでその仇討ちをされて、突かれて亡くなった。大変な力持ちであった。大変な健康体であった訳です。所がその健康が災いした。力が強かったばっかりに、ただ普通の者ならこうやって殴ったりなん事だったりねーベンプ(頬・ほほ)がはれたり、頭が割れたりする位のこつじゃったろうけど、あんまり力が強かったので殴り殺してしもうた。と云う様にね、健康が却ってその人を死に追いやったと云う事にもなる。
どうでも此処で解らしてもらわなきゃならない事は、健康、健全だからと云うて、健全な心がある訳ではない。健全な心に宿った所の健全、健康であって始めて、それが全てのおかげの元になるのである。何をするにも体が元なりと仰るのは、幸せになる事の元と言うのである。人間が幸福になる元、まず健康だ、けれどもその健康の元は心である。是ををあべこべにすると大変な事になるのです。所が現在の例えば教育と云うかね、栄養学と言った様な学問迄出来て、食べ物の事ですよね。
こう云う物とこう云う物を食べると健康になる。そしてスポ-ツ運動を奨励する。それは健全な体と、所謂健康になる為である。その事には一生懸命力を入れるけれどもその根本にならなければならない、どう云う訳で健康を願うかどう云う訳で健全でなければならないか。それは人間が幸せにならなければならないからである。その健全とか健康とか云うその事が幸せの元になる。その幸せの条件にとっても健康が必要である。
其処迄は良いけれど、いよいよ人間が幸福になって行く事の為には心が健全でなけれは出来ないと。その一番大事な物が、私おろそかにされて居る様に思う。信心さして頂く者はね、何をするにも、まず「体を作れ何事も体が元なり」と言う所を「心を作れ何事も心が元なり」と云う所がが私はなされなければならんと。まず心を作らなければならない。健全な心、その健全な心に約束された所の肉体、健康、其処に栄養も取らなくてはならないだろう、適当な運動も又、必要であると云う事になる。
是があべこべになったり、心の方がおろそかにされたのでは、却って健康が災いの元になる事すらなりかねないのです。愈々心しなければならない所ですね。心です。其処で心造り、心造りと言うてもです、心・心と言うておるだけでは心は健全になりません。肉体に適当な運動と適当な栄養を取らなくてはならない様に、心にもやはり心の糧(かて)が要るのです。健全な心を作る為に。
教祖様はその健全な心造りの事をあらゆる角度からお説きになっておられます。そして「おかげのあるも無き和賀心、今月今日で一心に頼めい、おかげは和賀心にあり」和らぎ賀ぶ心をもって願うなら健康のおかげも、いや人間の幸福の条件である全てがその和賀心に頂けるのだと説かれた訳です。心造り、どうでも心を作らねばなりません。昨日、此処の引き出しを整理させてもらいよったら古い手帳が出て来た。始めは私が使いよったらしいけれども、それを若先生が使っておるのです。
若先生がこの手帳にメモしております中にね、色んな事が書いてある。人間としての経ちですね、其の中にこう云うのが有る。“自己を現そうとしている”自己と云うのは自分ですね、自己を現そうとしている連中ばかりの様だねと、誰かのお話を此処に書いたのでしょう。“自己を現そうとしている連中ばかりの様だね”と、“神を現すのが信心の本命なのにね”と。神様を現すのが信心の命、それに何ぞやと云う訳なんです。自己を現そうとばかりしておる。そう云う連中ばかりである。
信心とは神を現すのが信心の本命なのにねと云う訳なんです。信心をしておって、自分さえ良ければと云うだけでもないでしょうけれども、自分を売り込む、自分を売り出そう、所謂どう云う事になりますかね、名誉欲なんかもそうでしょうね。肩書きが欲しい、教祖の神様は「この方は人が助かる事さえ出来れば良い」、地位とか名誉とか云う物はいらない。自分の顔だけを作ろうとする。今日私「体を作れ何事も体が元なり」という御神訓を頂いた訳ですけれども。
今日、御神前で頂いたのは“面(おもて)作り”ですね、能面なんかを作ります、あれを面作りと申します。それがこうこの人の面を作ろうとうしておった所が、その人がこう何と云うかね、羽衣と云うのがありますね、あの天女があの空にこう舞上がって行く絵なんかがありますね。丁度そんな風にね、その人の面を作ろうと思っておった所にね、上にあがって行ってしまったもんだからアラアラと云う間に上がってしまったもんだから、そのそれが出来なくなった。そんな所を頂くんです。
面作り自分の面を作る、所謂自分の顔を作ろうとばかりする。それは人の功績でも、自分の功績にしようとしたりする。そんな人はめったにありませんけれども、人からは、お供え物を預かって来よってから、自分の名前でお供えをする人がある。神様を何と心得ているだろうかと、成程、私の顔だけは、私の前だけでは、此の人は中々御用が出来ると思いましょう。人のした御用でも何でも自分がした様にする、自分の面作りです。 自分の顔だけは作る。是も自分がした、是も私がしたと。
心を作ると云う事に心掛けないからですね。私が以前に頂いとります、「神様の顔を立てておれば、いわゆる神様を中心に働いておれば、神様が氏子の顔は立てて下さる。神様が氏子を中心に働いて下さる」と云う意味の御教えを頂いた事があります。所謂自己中心ではなくて、神様中心と云う事なんです。是はね私は自分の心作りの最高の事だと思うですね。最高の考え方だと思いますね。神様の顔を立てる、神様を中心に申し上げた所の生き方、それなのに自分を中心にした信心、自己本位である。
是ではよし例えば形の上のおかげが成就いたしましても、心作りと云う事にはならない。若先生も書いとります“信心とは神様を現す事なのに、自分を現そうとしておる”所謂あべこべである。自分を現そうとしている。“信心とは神様を現す事なのにね”と云う事なのです。私は是を読ませて頂いてから考えた、神様を現すと云う事は、そんならどう云う事だろうかと、成程信心をさせて頂いておかげを受けると云う事だと。
あっちは中々信心を、一生懸命しなさるから家庭が円満だと、言われるならば、もう其処に神様を現した訳です。あちらは一生懸命一家中で信心をしなさるから、立派な家になった、お金も貯まったと、言われる様になれば、もうそれは神様を現した訳になる。所がです、私はそうだと思うた。所が信心はしよらなかっても家庭円満な所もある、信心はしょんなさらんけれども、どんどんもうけ出して行きよんなさる所もある。
そうなって来るとです、神様を現しておかげを頂いている様にあるけれども、それは大した現し方ではない事になる。神様を現すと言う事は、どう言う事だろうか。おかげを頂いてね、不健康な者が健康になる、おかげ頂いて金が貯まる、おかげ頂いて人間が円満になって、家庭が円満になる。成程信心しょんなさるから、ああ云う様におかげ頂いて行きよんなさると言れればね、神様を現した事になるけれども、所が片一方では、信心はなかっても、そう云うおかげを受けておる人がいくらでもあると云う事。
そうすると是は大して信心で現したと云う事にはならん。もう是は誰が見ても、誰が聞いても、成程神様じゃなと言わせたり思わせたりするだけのおかげを頂かねば、神様を現したと云う事にはならない。私はその事をそう思わせて頂きよったら、何処かで見た景色でしょうね、例えば皆さん耶馬渓なんかに行った事があるでしょうか、耶馬渓なんかに。道中に切り立った様な大地から、山がね、岩がね、ずうと切り立って、紅葉なんかの時には見事な、それこそ自動車で行きよっても。
自動車を止めて見上げる様な場面がありましょうがそれこそ絶景です。所謂絶景かな絶景かなと云う様な景色があります。しかも其れは大地から突き立った様な景色があります。そう云う景色を御神眼に頂いた。ハハア-神様を現すとい事はこう云う事なんだなと思うた。神様を現すと云う事はまあ言うなれば何にもない所から、無から有が生ずると云う、信心とは無から有が生ずる程しのおかげが受けられるのが信心である。
神様を現すと云うのはそう云う事だと無から有が生じる。しかもです只信心しょっても、信心しよらなくても頂いておる程度のおかげでは、神様を現すと云う事にはならないと言う事。只信心さして頂いておかげ頂いてる者だけはおかげと思いよるけれども、それを現したと云う事にはならない。現すと云う事は成程神様じゃなぁと立ち止まって見上げる程しのおかげを頂くと云う事であるのです。とても人間業とは思われないそう云うおかげを頂く事である。それが神様を現すのである信心とは神を現す事なのだと。
神様を現す程しの信心と云うか力と云うか、それはとても自分本位ぐらいな信心では生まれません。自分さえよかれば良い、自分の一家だけは円満であれは良いと云う、所謂マイホ-ム的なおかげだけでは、それがおかげなんです、けれども現すと云う事にはならない。現すと云うのは信心があろうがなかろうが、成程、神様じゃなあと、言われたり、思われたりする程しのものを現す、所謂無から有が生じる。
大地からそのまま突き立った様に、岩がそびえると云うか山がある、それに紅葉した木が一杯、何と素晴らしいと、下から見上げる様な、所謂絶景と云れる様な、おかげを受けられるのも信心なら、それを受ける事が神様を、成程、現すと云う事なんだ。其処で神様を現す程しの心と云う物は、成程肉体に栄養をとらなければならない適当な運動も必要である。ですから心にもやはり、糧(かて)を取らなければならない。
好き嫌いをしてはならない。甘いものが好きじゃからと言うて、甘いものばっかり取ると、いわゆる偏食するから、体の方も偏って来る。だから好き過ぎる物を、適当な所でブレ-キをかけて行くと言う生き方、嫌いなものを、それこそ目をつぶってでも、それを好きになる努力をさしてもろうて、適当なおかげを頂かなければ、体も健全にならない様に、心も同じである。
起きて来る問題の中に甘い物もあれば、辛い物もある。自分の対人間の場合でも、あれは虫が好かんと云うのもある。好かんのを好かんと言うたらおかげにゃならん。心が健全じゃない証拠だと思わしてもろうて、嫌いな人でも好きになる。言わば精進をさしてもらい、好き過ぎる人は、好かん振りをする位で丁度いい。人だけではない物、物事すべてがそうである。苦い思いをする事であってもそれを頂く事によって、心の胃腸が健全になる。だから心の健全を願う為に。
その様な心掛けも必要であると同時にです、根本的な心を頂かしてもらう。今日私は神を現す程しの心と云うのは、自分と云う物を中心にした物ではなくて、神様を中心に申し上げた生き方、言うなら神様本位の生き方、自分本位の生き方から神様本位の生き方、神様の心まかせの生き方、そう云う生き方に一生懸命、精進させてもらい努力さして頂いておったら、神様が氏子まかせになると仰せられる 神様が氏子本位に働いて下さると云う事になったら、もう是はあれよあれよと言う程しのおかげなのです。
久留米教会の初代の石橋先生は、「人間の一握りは是だけだけれども、神様の一握りはどれだけあるかわからん」と仰る程しのお陰が現れて来るのである。自分本位で大抵、工面して、理詰めようやって、是だけの事が出来たと、云う様であっても、それはたかが知れてる。それで私共はです、自分と云う者を空(むな)しゅうして、神様本位の生き方に精進する。神様本位の生き方にならせてもらう。
その為の修行、その為の信心の稽古である。“信心とは神様を現す事なのにね”と、“自分ばかりを、自己ばかりを現そうとしている連中ばかりだ”と、若先生がこの手帳に書いております。その言葉からです、そう云う連中になり果ててはならない、折角信心させて頂くのであるから、神様をお現し申し上げる程しの信心を頂きたい為に、神様本位の生き方を体得しなければならない。
もう一にも神様、二にも神様、三にも神様なのである。もう神様中心のなである。神様本位なのである。そこにはもう条件はない。けれども神様の方が、今度は氏子まかせになって下さるのであり、氏子本位に働いて下さる事になったらどう云う事になりましょう。もう其れこそあれよあれよと云うおかげになって来る。それこそ何にも無い所から、もうこちらは神様、神様と云うておるのに、今度は神様の方が氏子。
氏子と言うて下さる事になったら、神様の神力無限と云う、無限の神力をもって氏子の上に働き下さる事になったら、神様の神力無限と云う、無限の神力をもって氏子の上に働き下さる事になった時に、始めて神様をお現わし申し上げる事ガ出来る、と云う事になるのです。只自分本位に、どうぞこうして下さい、ああして下さいと健康にならして下さい、綺麗な家に住まわせて下さいと、言った様な例えば願いで、それよしそれが成就して所でです「そげんとは信心しょらんでん頂きよるじゃないか。」
と言うこつになったら。現す事にはならんです。神様を現し申し上げると云うのは、私共が神様本位になった時、神様が又、氏子本位になって下さる程しのおかげを頂く時、神様をお現し申し上げたと云う事になるのです。そう云う心掛けがです、所謂“体を作れ”と云う事を、私は今日“心を作れ”と“何事も体が元なり”と言う所を“何事も心が元なり”云う御神訓に基づいてお話しを聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。